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こよみ

目次

あらまし

未来・過去・現在にわたるすべての時間の流れをなどの単位に整理編成する制度や技術。
暦は、時間をどのように認識把握するかという根幹にかかわり、世界観や歴史観の基礎的な特質を決定するものであり、その知識や理解はおろそかにしてはならぬ重要な項目である。

用語

  • 暦には、様々な種類があり、「○○暦」などと名付けて区別する。
  • 暦を編成する方法を「暦法」または「暦制」という。しいていえば暦制は月日を編成する原理そのものをを言い、暦法はそのための天文学計算の数値や計算式を念頭に置いた表現ということができるが、暦法も暦制もほぼ同義に使われる。
  • 暦の実物(その年のカレンダー)は「暦本」(れきほん・こよみのためし)という。

語源

通説では「日」を意味する「か」(ふつか、みっか等の「か」)を「読む」(数えるの意)ので「かよみ」の転訛、とする(谷川士清が『和訓栞』で「日読み」(かよみ)とし一日・二日...と数える意味と解いた)。この通説以外にも諸説があり、たとえば本居宣長は「一日一日とつぎつぎと来歴(きふ)るを数へゆく由(よし)の名」とし、つまり「来読み」の意味としている。通説よりも宣長の説の方がいくらかマシに思える。暦は、過去を読むものであるとともに未来を読むものであるから、宣長説だけでは未来を読むものという半面の意味しか解けない。そこで、過去を読むものとしては「越読み」とする解釈がありうる。「過ぎ越してきた方を読む」(または「過ぎ越してきた世を見る」)、つまり「越読み」。「こよみ」という言葉は「越読み」(過去)と「来読み」(未来)の二つの言葉が長い間に混同してできたものであろう(「越読み」と「来読み」はともに「こよみ」であり「こ」の部分は上代特殊仮名遣いではともに甲類のコであるが意味は異なりさらに古くは発音も異なったであろう)。過去を意味する方の「こよみ」は、「歴史」を意味する最古の和語とも考えられる。

  • 漢語の「暦(れき)」
漢字の「暦」は「歴」と同じ。過去に関する記録は「歴」、未来に関する記録は「暦」と使い分けるようになったのはかなり後世のことで、歴史を暦史と書いたり「こよみ」の意味で「歴」の字を用いたりというように初期には区別はなかった(「歴史」も参照)。

原理

時制

「日」は一昼夜を基本とする時間の単位である。1日を二分すれば「ひ(昼)」「よ(夜)」。「ひ」は太陽であり、転じて太陽の出ている時間帯、また太陽の出た回数。「よ」は節目の意味。「ひ」と「ひ」の間をいう。1日を四分すれば「朝・昼・夕・夜」。二分法の「ひ(昼)」「よ(夜)」を三分づつするなら「ひ」を三分して「あした(朝)・ひる・ゆふベ(夕)」、「よ」を三分して「よひ(宵)・よる・あか(暁)」。これで六分となる。この六つを「トキ」という(定時法的な用法では1トキ=4時間)。昼夜二分法と四分法の組み合わせでは最小単位2時間、六分法と四分法の組み合わせでは最小単位1時間が割り出され、ここに24時制が得られる。「ひる・よる」は「ひ・よ」の強調形で「ひ」「よ」の時間範囲の中の真っ盛りの中心的時間帯をいう。トキはさらに三分され、それぞれをシバという。トキ・シバは定時法的にも不定時法的にも用いられて未分化なまま漢語文化に押し流されてしまった。(定時法的な用法では1シバ=80分)。中国伝来の干支法では「1刻」=2時間の定時法である。「シバ」という古語は現代語では失われているが「屡々(しばしば)」「暫らく(しばらく)」という形で痕跡がある。

  • アシタ(朝)/アシタトキ/am06:00-10:00
  • ヒルテ/ヒルテトキ/am10:00-pm02:00
  • ユフテ/ユフテトキ/pm02:00-06:00
  • ヨヒ(宵)/ヨヒトキ/pm06:00-10:00
  • マヨ(真夜)/マヨトキ/pm10:00-am02:00
  • アカ/アカトキ(暁)/am02:00-06:00
シバ名シバ名漢字時刻(定時法)備考
アサビラキアサビラキシバ朝開きam06:00-07:20冬の日の出
アサナアサナシバ朝中am07:20-08:40
アサジアサジシバ朝後am08:40-10:00
ヒサキヒサキシバ昼前am10:00-11:20
マヒルマヒルシバ真昼am11:20-pm12:40
ヒジリヒジリシバ昼後pm12:40-02:00
ユムケユムケシバ夕向食?pm02:00-03:20
ユフナユフナシバ夕中pm03:20-04:40
ユフグレユフグレシバ夕暮れpm04:40-06:00冬の日の入
タソガレタソガレシバ黄昏(誰彼)pm06:00-07:20夏の日の入
ヨベヨベシバ夜辺pm07:20-08:40
サヨサヨシバ小夜pm08:40-10:00
ヨサヨサシバ夜前pm10:00-11:20
マヨマヨシバ真夜pm11:20-am00:40
ヨシリヨシリシバ夜後am00:40-02:00
ヌルヌルシバ寝るam02:00-03:20
マサメマサメシバ目覚めam03:20-04:40
シヌメシヌメシバ東雲(忍目)am04:40-06:00夏の日の出

日読み

(これは「かよみ」ではないので注意)日読(ひよみ)の「日(ひ)」とは太陽のことであり、それを読むというのは1年の季節の移り変わりを日で数えるの意味。単に日数を1日2日3日と数える意味ではなく、太陽の変化=季節の推移を測る意味。すなわち太陽暦そのものである。
中国から暦法が伝来する以前には原始的な季節暦があっただけで暦はなかったかのようにいう俗説が流布しているが、そうではなく、縄文時代以前、数万年前に遡る巨石文化によって太古から冬至・夏至・春分・秋分が知られていたことがわかり、これだけでかなり精緻なカレンダーを作成することが可能だったはずである(海外では3万5千年前には暦の概念ができていたという説もある)。万葉の中に現れる断片的な習俗や民俗信仰の中の痕跡から、中国の暦制が伝来する以前に存在した日本固有暦を想定する議論は、江戸時代から戦後まで少なからざる数あげられる(『日本古代暦の証明』吉村貞司/六興出版など)。春夏秋冬を三分して得られる十二中気(これと十二節気を合わせて二十四気という。ただしこれらは名称としての成立は新しい)は、太古の太陽信仰と深く結びついており、十二支12星座の共通起源となったもので、仮に「12象徴」と呼ぶ。これは先史に遡るユーラシア規模をもったもので、オリエント起源とか中国起源とかで説明できるような狭い範囲のものではない(この12象徴は中国でいう二十四気の「十二中気」、欧米でいう12星座の最初の0度に該当する)。詳細は「12たま」または「天照御魂」または12象徴を参照。
日本では古くから「日置部(ひおきべ)」(のち訛って「へぎべ」)があり、太陽の祭祀と観測を管掌したが、中国製の暦が採用されてから暦の製作は阿直岐史氏や西文首氏などの帰化人系の氏族に管掌され、日置部は形骸化して、平安時代には宮中の灯火(太陽の分霊とされ聖別された火)を管理する部署に零落してしまった。欽明天皇は新しく「日祀部(ひまつりべ)」を設置して、大陸式の観測技術を取り入れて太陽祭祀を復興した。

  • 漢文の春夏秋冬のうち、春は「雨季」を、秋は「乾季」を表わす文字。夏は本来は特定部族(夏王朝)の名で、それが転じて夏族の祭りの季節をいうようになった。冬は糸篇つけて「終」となったように一年の終わりの意。
  • 春(はる)はコノメハル(木の芽脹る)、夏(なつ)はクニアツ(国暑)、秋(あき)はタナツアキ(穀稔)、冬(ふゆ)はコノネフユ(木根殖)。

『ウエツフミ』では季節を「つひ(つゐ)」といい、四季を「よつのツヒ」といっている。また「つひ」を三分したものを「あひ(あゐ)」と言い、例えば「みそかびのあひ(三十ヶ日のアヒ)」等という(ツヒ・アヒは語源不明、しいていえばツヒのツは集えるのツで日が120個集まったもの? アヒは間(あひだ)のアヒ? 合いで日を30個合わせたもの? いずれにしろ語源解釈不可能)。漢文では四季を分割したものを「気」といい、四季を三分割したものを「十二気」、六分割したものを「二十四気」という。下記の表の漢字名は旧暦の月の異名として使われるが、朔望に基づく旧暦の「(期間としての)月」は本来的に季節の推移に関係ないので、月の雅称として大雑把にその季節の頃の月という趣旨に使うにすぎない。元々は月と関係のない季節の名である。

  • 漢名(機械的・規則的)
四季節初/孟終/季
はる(孟春)・初春・新春・早春・上春・首春・開春・春孟仲春・春半・ーー・(中春)・春分・春中季春・(晩春)・暮春・残春・(杪春)・(末春)・春晩・春杪・春末
なつ孟夏・初夏・新夏・早夏・ーー・首夏・槐夏・立夏仲夏・夏半・盛夏・中夏・午夏季夏・晩夏・ーー・窮夏・ーー・ーー・ーー
あき孟秋・初秋・新秋・早秋・上秋・首秋・槐秋仲秋・秋半・盛秋・正秋・秋分・秋中季秋・晩秋・暮秋・窮秋・残秋・杪秋・末秋・九秋
ふゆ孟冬・初冬・新冬・早冬・上冬・開冬・立冬・亥冬仲冬・冬半・盛冬・正冬季冬・晩冬・暮冬・窮冬・残冬・杪冬・ーー
  • 漢名(美称的・雅名的)
和名和名(雅称的)漢名(文学的・固有的)漢名(半固有・不審)
はつはる献春・甲春・規春・改春・発春・端春・春浅春王・(王春)・(芳春)
なかはるなかのはる殷春・酣春・花春・春和・春濃(芳春[誤?])
はてはるくれのはる・はるをしみ殿春・春抄・春章・春帰・(帰春)
はつなつなつは(夏端)・なつはつ維夏・始夏清夏・(朱夏[誤?])・(夏半[誤?])
なかなつ梅夏・炎夏・夏五(朱夏)
はてなつとこなつ積夏・長夏・常夏
はつあきあきそめ(秋初)肇秋・桐秋・蘭秋
なかあきあきかぜ深秋・桂秋・秋壮・秋涼秋高[誤?]・王秋・秋清・(清秋)
はてあきこずゑのあき(杪秋)勁秋高秋
はつふゆ方冬・厳冬
なかふゆ(正冬)
はてふゆみふゆ(三冬)黄冬・冬索・三冬・餘冬・隆冬

『ウエツフミ』では朔望月(旧暦の月)と混同されたまま書かれているが(だから以下も「月」という言い方をする)、月の前半を「ヒノガ」、月の後半を「ミノガ」といい、ミノガは必ず15日間と決まっているのに対し、ヒノガは15日の場合と16日の場合があるとする。つまり「1年=365日=12季×30日+端数5日」であるからヒノガ16日の月が5回あればよく、閏年には6回あればよいことになる。むろん正しくは「月の」ではなく「アヒの」というべきだが。

月読み

天体としての月輪・月球ではなく時間の単位としての「月」は、純太陽暦である現代の暦に使う言葉としては不適切である。純粋に季節の変化を追いつつ農作業に役立てるだけなら月の朔望を無視した純太陽暦が望ましいのはいうまでもない。従って初期の太陽暦には「月」やそれに類する言葉、月と同語源の言葉はなかったと考えられる。1年を365日まで単純に数えたとは思えないが太古から二分二至(冬至・夏至・春分・秋分)が知られてしたという考古学証拠があるので、年を四分したり、さらに上記の十二気=12象徴によって12分することが行われたのは容易に想像できる。
月の朔望を単位として年を区切り、その月の中で日を数えること、すなわち太陰暦は、シュメール文明から起こり、支那でも初期からなされた。

期間としての月を意味するラテン語"mensis"と英語"month"はともに英語"moon"と同語源で元は「数える/測る」の意味。(天体の月を意味するラテン語"luna"はギリシア神話の月の女神セレーネからきていて、本来の月をさす言葉と入れ替わってしまっている)

上述の通り、単純に農業に関してのみの実用性からいえば、純太陽暦が望ましく、太陰暦は季節との整合性がないので、かえって不便である(例外は潮汐を把握する必要のある漁業関係者、水運関係者)。にもかかわらず古代文明において太陰暦が主流になった理由は
第一、太陽信仰が衰えた。メソポタミアでは王位を授ける大神として月神が崇敬されるようになったが、太陽信仰があいかわらず盛んなエジプトでは太陽暦が使われ続けた。
第二、文明の発展にともなって経済的にも時間的にも庶民に余暇がふえ、夜の娯楽やイベント、あるいは残業をしてさらなる富を求める風が生まれた。日の出とともに起き、日没ととに休む原始的で素朴な生活には月夜の如何は関わりないが、仕事にしろ遊興にしろ夜も忙しい時代になると、照明器具の未発達な時代には月明かりの推移を把握することがひじょうに重要になる。十分な照明の用意がたとえ可能であっても現代とは比較にならない手間と費用が必要だった。 第三、太古原始の霊能力が文明的生活によって衰えると、神官階級の祭儀や呪術において月の力を借りることがなされるようになる。特に新月や満月などは精神集中におけるインスピレーションが刺激され占い等に適切な日取りであることは現代人でも体感可能である。祭祀の吉日を知るために(もしくは他に説明するため)太陰暦が都合がよい。
…等が考えられる。
月の朔望周期は約29.5日であるから大の月30日と小の月29日が一定の規則的な配列に従って繰り返される。以下、天文学用語(及び漢文の用法)に従って新月を「朔」、満月を「望」という。

  • 白月と黒月(二分法)

インド起源の考え方で東南アジアからヨーロッパまで広く親しまれた分け方。朔から望に向かう期間を「白月」、望から朔に向かう期間を「黒月」という。海の生物(魚介類)は白月の間に肥り黒月の間に痩せていくとか、白月の間に始めたことは巧くいくが黒月の間に始めたことは竜頭蛇尾に終わる、祝福のおまじないは白月に呪いの儀式は黒月に、等さまざまな伝承や迷信がある。

  • 十干三旬(三分法)

支那では殷王朝の時代にすでに月を三旬にわけて、1旬の10日のそれぞれの太陽を「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と名づけ、「10個の太陽」の神話の元になった。十干はこのために作られた(「十二干」を参照)。日付けに干支がつくようになった起源である。現在は日付の干支は60日サイクルで機械的に回っているが本来は月の朔望にあわせたもの。『ウエツフミ』では上旬を「ツキタチ(月立)」、中旬を「ツキマド(月円)」、下旬を「ツキコモリ(月籠)」(後世訛って「ついたち」「つまど」「つごもり」という)としてそれぞれ10日づつ数える、例えば3日なら「ついたちみっか(月立三日)」、15日なら「まどいつか(月円五日)」、29日なら「つごもりここのか(月篭九日)」という具合。これは月明かりの度合いを知るのに便利な仕組み。

  • 七曜四週(四分法)

朔と望に上弦の月と下弦の月を加えれば一ヶ月が約7日づつに四分される。これは潮汐を知るのに便利である。すなわち朔と望には大潮、上弦と下弦には小潮になる。朔・上弦・望・下弦の日はすべて土曜日に固定され、そこから土日月火水木金の順番で一週間が回っていた。朔望月は約29.5日だから、4週に1日(小の月)か2週に1日(大の月)の割合で、何曜日でもない日が出てくる。これが不吉な日として家に閉じこもり働かない風習が生まれた。これが「安息日」の起源である。しかしメソポタミア文明の末期には早くも一週間は月の朔望と無関係に機械的に回すようになって、安息日は金曜の次だから土曜日にかぶさってしまっていた。ちなみにタイなどではつい最近まで日曜休日制ではなく、朔・上弦・望・下弦の日が休日であった。

グレートイヤー(大歳)

漢語の「年(ねん)」と和語の「トシ(年・歳・齢)」は意味に相違がある。漢語の「年(ねん)」は季節の一巡で天文学でいう太陽年(回帰年)のことである。和語の「トシ(年・歳・齢)」はそれも含むが、年を集めた単位(=グレートイヤー)のことをもいう。

「年(ねん)」は季節の一巡を単位とする時間である。王朝で「」といい王朝で「」といい王朝で「」といったので、漢文では「年」をまた「祀」や「載」などの単位で数えることも多い。荒深神道では「種年(たねとし)」といい、富士文書で「ね(根)」といい『ホツマツタヱ』で「ほ(穂)」という(これらはすべて単位なので1年、2載、3祀、4種年、5根、6穂、などのように普通に単位として使うことが想定されている)。1年よりも長い時間単位を構造化できなけければ、時間認識は「循環型時間認識」の枠内に留まり、歴史文化は生まれない。

  • 単純な数理的な積算による大年
式では、西暦を区切って100年を「世紀」、1000年を「千年紀」、起点はもとろんAD1年である。
  • 観念的な数理体系による大年
支那式では、干支を使って10年(干)、12年(支)、これを組み合わせて60年(干支)の周期をつくる。これと別に九星は9年周期。これらを「十天干・十二地支・九人星」といい、すべて組み合わせれば180年の周期ができる。180年は六十干支が3つ重なったもので最初の甲子年を「上元」、次を「中元」、最後を「下元」という。最近の上元はAD1864年(甲子年)、中元はAD1924年(甲子年)、下元はAD1984年(甲子年)であり、次回の上元はAD2044年(甲子年)である。九星でいうと上元の年は必ず一白水星の年、中元の年は必ず四緑木星の年、下元の年は必ず七赤金星の年になる。これをさらに複雑に発展させた讖緯説では『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として1320年(別解釈では1260年)周期で歴史が変動するとする。最近めぐってきた起算年(激動が起こるはずの年)はAD1504年である。他にもいくつかの流派があった。
水谷清は、2560年を「小循律」とし、それぞれ時代の様相について、登旭時代とか黎明時代などの説明的な名称のついた小循律を16経た4万960年を「中循律」とした。大循律65万5360年、大々循律1048万5760年、起点はBC3万9129年で、最近の小循律の元年は1832年(天保三年)である。
ホツマツタヱ』の「マサカキ暦」では1年を「ホ(穂)」、干支の1巡60年を「エ(枝)」、6万年を「スズ(鈴)」として暦日を数える。
荒深神道では1年を虫魚草木階年(むしなくさききざとし)、十干で戊の年(西暦で下一桁が8の年)を鳥獣階年(とりけものきざとし)、西暦で下二桁が68の年を高波建階年(たかなぎさたけきざとし、最近では1968年=昭和四十三年)、西暦で下三桁が868の年を火々出見階年(ほほでみきざとし、最近では1868年=慶応四年・大政元年)、西暦で下四桁が6868の年を邇々藝階年(ににぎきざとし、最近ではBC3133年)という。
  • 天文学的な大年(公転周期に基づくもの)
木星の約12年、土星の約30年。ハレー彗星の約76年。…等々。しかし太陽年の一段階上の公転周期というと、太陽系銀河系を一周する約2億2600万年があげられる。これは「銀河年」 (Galactic year) という。
北極星の移動周期(歳差運動だが、春分点が黄道を一周する周期と同一現象)である2万5868年については、グレートイヤー (great year)という(これを12分したものがいわゆる「〇〇座の時代」)。このオカルト的に重要かつたびたび話題になる周期については、いわゆる「星祭」の信仰と関係づけることができる。「星読み」とはそのまま字義通りに解釈すれば、天体観測全般をいうが、狭義に考えてみると、「星祭」が星々全般の祭祀ではなく北極星の祭祀であることから、「星読み」もとくに天上の北極点の観測とすべきであろう。天の北極の移動の観測、すなわち「歳差運動」の観測のことである。またこのグレートイヤー(2万5868年周期)を「プラトン年」とよびこれを12等分したものを「プラトン月」とも称するがオカルト業界の慣例的な表現であって正しくない。歳差を発見したのは前二世紀のヒッパルコスでありプラトンが生存していた時代のギリシアでは歳差は知られていなかった。正しくはプラトンが言っていたのは3万6000年周期である(後述)。
  • 天文学的な大年(天体の衝合に基づくもの)
木星と土星の会合周期約60年。(サロス周期)約18年。など。
  • 人文的な大年(直線的な紀年法)
年号紀元(皇紀、成紀、黄紀、檀紀、キリスト紀元、へジラ紀元、仏滅紀元、アケメネス紀元、突厥紀元、…等。または建国○年、即位○年など。公的に定められたものだけでなく「戦後○年」などの自然発生的な数え方や私年号なども含む。
  • 算定の基準点が不特定なもの(たんなる数量計算的な単位)
10年を一昔または「世代」というが如し。
支那では1世代を30年とし、旧約聖書では1世代を40年、または44年とする(ただし支那でもユダヤでも長子相続を前提とした計算であるから末子相続の社会では倍くらいになりうる)。聖書には40年を33世代重ねて1320年を周期とする説や30年を14世代3回重ねて1260年とする説もあったらしい。
プラトンは『テアイテトス』の中で歴史は3万6000年の周期で循環すると考えた。これを「プラトン的転回 (Platonic Revolution)」または「プラトン年 (Platonic Year) 」という。この流れを受けてローマのクリュシッポス、ストア派のエピクテトス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(『自省録』第七巻)そしてポリュビオス、アリストテレスらも歴史を循環するものと捉え、未開の時代は想定されなかった。しかしこの単位は西暦紀元前の何年から数えた3万6000年なのかわからぬ。
荒深神道では1年を「種年」、10年間を「久々年(くくとし)」100年を「若年」千年間を「御年(みとし)」、1万年を「太歳(おほとし)」という。たとえば「16若年」といえば1600年、「8太歳」といえば8万年。

通常「グレートイヤー」といえば上記の歳差周期をいう(まれにプラトン年のことをいう場合もあるが)。ただし、これらの太陽回帰年(1年=365日)よりも大きな時間的単位として構想されたものはすべて「グレートイヤー」と呼ぶべきである。

原初の暦

沿革

我が国の暦制度の沿革については「暦制史」を参照せよ。



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