十二象徴

出典: Uyopedia

十二象徴

目次

概要

黄道12星座十二支の併称。または12星座と十二支及びそれらから派生したことが明らかであるものでかつそれらに意味が類する12セット一揃いの諸観念の総称。この場合の象徴とは"Sign"ではなく"Simbol"である。12星座は古代オリエントで発祥したが、支那でいう十二支とは共通の原形から枝分かれしたものであり、正確にはその共通祖形をuyopediaにおいては「12象徴」と仮称する。

かつての議論とその批判

12星座と十二支が共通の原形から枝分かれしたのか、それぞれ別個に発祥したのかは意見が分かれている。古くは郭沫若(AD1892〜1978年)が「古代バビロニアの12星座が東漸して十二支となった」と唱えた。しかし郭沫若の説にはややこじつけめいた説明が含まれることや12星座と十二支の概念系列に噛み合わない部分が多すぎること、「12」のセットについては共通起源でなくともなんとでも説明はつくこと等から、民間の俗論はともかくとして学界では長きに渡って別々に発祥したという説のほうが有力とされることも多かった。しかし白川静(AD1910〜2006年)は後述の「太歳紀年法における歳名」と古代ペルシアの12星座の名称の類似を根拠に「古代オリエントの12星座がイランを通じて戦国時代に支那に入り十二支ができた」と主張し、最近では同一起源説(=郭沫若の説そのままの復興)がまたぶりかえしてきている。

郭沫若の説の問題点は、2,3の説話に登場する固有名詞の音の類似を絶対視して12象徴すべてに一貫する論理で説明できないこと、白川静の説の問題点は太歳名と十二支の相互関係が後からこじつけられたものであるのにその相互関係を前提に12星座と十二支を短絡的に結びつけていることである。これらの諸説は、すべて同一の誤りに基づく。それは、十二支の象徴記号(甲骨文字)が出現するのはの末期で第27代武丁(即位BC1325)以降であり、12星座の起源とされるシュメール・バビロニアよりも遅く、十二支の説明体系が整う戦国時代(前三〜二世紀)はメソポタミア文明から見るとはるか後世であることから、第一に「12星座が古くこれが起源であり、十二支は新しく12星座から派生した」に違いないという思い込み。第二に「実質的に枝分かれした(十二支の文字でなく十二支の意味内容が12星座に基づいて作られた)のは戦国時代頃」だろうという、かなり後世になって十二支が生まれたとみていることである。この場合、殷代の十二支文字もまた早い段階での12星座の影響下で出来たとするのか、殷の十二支文字は独自発生とみるのかは定かでない。後者の場合、十二支文字の起源については何も語っていないことになる。

結論からいえばイラン経由で伝播してきた12星座というのは十二支に類する諸概念のうち「12の太歳の名」だけを説明するにすぎず、十二支の根幹・本質について何も解明していない。

12星座も部分的にではあるが古代バビロニア(BC1894〜)において無から誕生したのではなく、シュメールの遺産を継承したものであることが解明されており、この過程で未知だった12星座の古義が徐々に明らかになってきている。一方、70年代に埋もれたままの竹内健の「十二干説」によれば十二支の起源は「王朝」(BC2205建国〜BC1765滅亡)にまでも遡ると推測することが可能な「十二干」であるという。同時に、十二干説により、これまでまったく誤解されていた十二支の本来の象意を明らかにした。十二支の本来の象意=12星座の古義があきらかになるにつれ、これまで12星座と十二支の分離をあまりに後世にみていたために12星座と十二支が東西で長い間に変形してしまっているものを短絡的に結びつけようとして無理が生じていたことがわかる。十二支は12星座から分かれたのではない。12星座と十二支はシュメール文明よりも、さらなる遠い過去に別のもの=同一原形からそれぞれに枝分かれしたのである。

  • 【注意】シナ王朝の年代
殷王朝の第27代の武丁の即位をBC1325年としたり、夏王朝の建国から滅亡をBC2205年〜BC1765年とするのは、現在の考古学の通説よりはやや古めに見積もられている。これはモンゴル時代までに漢学者たちが天文記録や素朴な伝承に基づいて推測・計算したもので、現代の考古学が採用される以前の古典的な説である。uyopediaにおいては諸般の研究結果によってこれを採用する。詳細は「支那古代史」を参照。

12象徴の一覧

西洋・中東・インド等でいう獣帯12星座十二宮と、支那でいう十二支十二次十二辰十二経などの一覧。詳細な考察や議論はそれぞれの項を参照。

十日(十干)--
十二辰a
命獣
星座おうしふたごかに獅子おとめ天秤さそりいてやぎみずがめうおおひつじ
記号
十二宮金牛宮
青牛宮
牛宮
双児宮
男女宮
婬宮
巨蟹宮
-
蟹宮
獅子宮
師子宮
師宮
処女宮
室女宮
女宮
天秤宮
秤量宮
秤宮
天蠍宮
蝎虫宮
蝎宮
人馬宮
天弓宮
弓宮
磨羯宮
摩竭宮
磨宮
宝瓶宮
賢瓶宮
瓶宮
双魚宮
二魚宮
魚宮
白羊宮
持羊宮
羊宮
拉典語TaurusGeminiCancerLeoVirgoLibraScorpioSagittariusCapricornAquariusPiscesAries
十二辰b申未(坤)未午午巳巳辰(巽)辰卯卯寅寅丑(艮)丑子子亥亥戌(乾)戌酉酉申
十二辰c
十二次大梁実沈鶉首鶉火鶉尾寿星大火析木星紀玄枵娵訾降婁
歳名作噩涒灘協洽敦牂大荒落執徐単閼摂堤格赤奮若困敦大淵献閹茂
  • 十二宮
上段は現在の一般的な漢訳。中段は古代の漢訳の中からの一例、他にもある。下段は古代の漢訳の一字訳の例。
  • 十二辰のabc
aは十二支の古名としての「十二辰」。
bは後世の陰陽五行説による12星座との対応関係。
cは十二支の古名としての十二辰とは別に、十二次に配当された十二支を「十二辰」とよぶもので天空を12分割したものをいう。これは古代のインド占星術を漢訳した『宿曜経』や後世に西洋占星術を中国風に翻案した「七政四餘」でも採用されているが、これそのものは前漢代(おそらくはそれ以前の戦国時代)に遡る古いものである。

が、bもcも十二辰の本来の意味が忘れられた後、古くても戦国時代(紀元前三世紀)に創作された説。本来の「十二辰」ではない。

  • 十二支の名称の変化
春秋時代末期から戦国時代初期(前五世紀)にかけて成立したと考えられる『国語』と『春秋左伝』のうち『国語』では十干十二支のことを「十日十二辰」と呼び『春秋左伝』では十干を「日之数、十」と呼んでいる。つまり「十日十二辰」が知りうるかぎり最古の呼び名でこれ以前はなんといっていたかは推定するしかない。のちに前漢にくだると『史記』にあるように「十母十二子」と呼ぶようになり、さらに後漢になって『白虎通』は「甲乙は幹なり、子丑は枝なり」といい、同じ後漢時代の王充の『論衡』の中で初めて「干」と「支」が出てくる。つまり十二支は「十二辰」→「十二子」→「十二支」と名称が変わった。

起源遡行

12星座の起源

十二支の起源

12象徴の起源

12象徴を扱う意義

12星座と十二支の関係を扱う者は、考古学者や歴史学者は表層的な類似しかみていないのは上述の通り。それ以外では占い師など一部のオカルト関係者がいるが、これも占いの道具、またはオカルト的世界観の概念装置としてみている。いずれにしろ、シュメール天文学と十二干説の登場によって、現在の学界で通説として語られている12星座論や十二支論、オカルト諸派で論じられているところの12星座の意義や十二支の意義などは、後世の変形しきった残骸に後世の理論で意味づけしなおされたものであって、それらはuyopediaの問題意識からいえば、論ずる価値がまったくない。後世とはこの場合、古代バビロニア以降はすべて後世である。

しかし、すでに述べたように12星座と十二支が分離したのは想像を絶するはるかな先史時代であることがほぼ確実視される以上、uyopediaの問題意識においては「12象徴」は世界神話の起源論と同様の価値を有する。この考察なくして原始人の世界観=太古哲学の認識には到達し得ないものである。



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